ううう、上手くまとまりません(泣)
2004年4月17日 読書
ISBN:4166603647 新書 大澤 武男 文藝春秋 2004/02/22 ¥714
上手く言葉にできないし、とてもデリケートな問題で不用意な言葉でこの駄文を読んでいる人に不愉快な思いをさせてしまうかもしれないけれど、敢えて書こうかと。
「ローマ教皇とナチス」大澤武男著を読んだ。
本著では、第二次世界大戦時のローマ教皇ピウス十二世がナチスに対してなぜ沈黙を守ったのか、ということに関して、大変平易な文章で紹介してくれる。
ユダヤ人の大虐殺という、人類稀に見る残虐な行為を行ったヒトラー、ナチス。
ヴァチカンは世界中に教会を通して緊密な情報網を持つと言われている。
多分、ナチスの非道もいち早く正確な情報を得ていたに違いない、しかし、教皇はナチスを名指しに弾劾することなく、迫害されているユダヤ人を名指しに擁護する発言をしなかった。
これに対する背景を本書では紹介してくれているのだ(ただし推測の域もあるし、ヴァチカン自体、第二次世界大戦時の書類等の詳細を公開していないのだ)。
もちろん神の使い手の頂点に立つ人でも、個々の思いと組織としての表向きの態度には開きがあるだろうし、立場も理解できる。
教皇が恐れていたのは、宗教を弾圧する共産主義がヨーロッパにはびこることであった。
さらに、キリストを磔にしたユダヤ人というキリスト教の根本的な反ユダヤ的伝統もあったのだろう。
ナチスに対する沈黙の理由は、ドイツがソビエトから流れてくる共産主義という思想をとどめる防波堤と考えていたとのことだ。
さらに教皇個人が青年期のとても充実した時期をドイツで過ごしたという背景も大きな要因だ、ということも紹介されている。
政治的権力も軍事力も持たず、ただ宗教的権威の上にのみ立っていた教皇。
なにが出来ただろうか?という問いに関しては、今となってはむなしく響くだけだが、教皇がもっと強く非難、遺憾の意を積極的に発言していればあれだけ多くのユダヤ人が死なずにすんでいたのではないか、と個人的には本書を読んで思ったこと。
高潔なそして敬虔な宗教人であったピウス十二世の苦悩は大きなものであっただろう、そして、宗教とはなんぞや?という思いが本書を読んだワタクシの感想なのだ。
ワタクシは基本的には、信仰としての「宗教」にはまったく関心がない。
ただし、教義を知るということに関しては、関心がある。
多数の人々が信仰している理由は何か?どんな背景があり、このような教義になったのか?それを知ることは、ワタクシの好奇心(言葉は悪いですが)を満たしてくれる。
そしてそうした関連の本などを読んでいつも思うのは、“神”とは「裁くもの」なのか?という疑問。
ワタクシが単純に思う“神”とは、万人に対して平等に慈悲深くあるべき存在なのだ。
しかし、どんな宗教でも教えを守らなければ裁かれる、バチがあたるという罰が待ち受けているのだ。
ほかの宗教を信仰している人は、“悪”なのか? 唯一の“神”とはなんなのか?
どの宗教でも他の宗教を信仰している人に対しては、慈悲深くないのがとっても解せないのだ。
もちろん、自分が信仰している宗教が一番良いものだ、ましてや生活の一部となっている宗教がもし唯一の良い教えではないとしたら、それらを信仰している人のアイデンティティにも関わることになるわけだから、単純な問題ではないということも理解できる。
人を殺すなかれ、良心に従え、敬虔であるべき、というそれぞれの宗教の信徒たちが血を流しあってまで他の宗教と争うということが、やっぱり、どうしても、ワタクシには理解できないのだ。
あー、やっぱり支離滅裂になってしまった。
まさしく駄文垂れ流しになってしまって申し訳ない。
結局、こうした疑問というのは明確な答えなどない、ということなのだろう。
上手く言葉にできないし、とてもデリケートな問題で不用意な言葉でこの駄文を読んでいる人に不愉快な思いをさせてしまうかもしれないけれど、敢えて書こうかと。
「ローマ教皇とナチス」大澤武男著を読んだ。
本著では、第二次世界大戦時のローマ教皇ピウス十二世がナチスに対してなぜ沈黙を守ったのか、ということに関して、大変平易な文章で紹介してくれる。
ユダヤ人の大虐殺という、人類稀に見る残虐な行為を行ったヒトラー、ナチス。
ヴァチカンは世界中に教会を通して緊密な情報網を持つと言われている。
多分、ナチスの非道もいち早く正確な情報を得ていたに違いない、しかし、教皇はナチスを名指しに弾劾することなく、迫害されているユダヤ人を名指しに擁護する発言をしなかった。
これに対する背景を本書では紹介してくれているのだ(ただし推測の域もあるし、ヴァチカン自体、第二次世界大戦時の書類等の詳細を公開していないのだ)。
もちろん神の使い手の頂点に立つ人でも、個々の思いと組織としての表向きの態度には開きがあるだろうし、立場も理解できる。
教皇が恐れていたのは、宗教を弾圧する共産主義がヨーロッパにはびこることであった。
さらに、キリストを磔にしたユダヤ人というキリスト教の根本的な反ユダヤ的伝統もあったのだろう。
ナチスに対する沈黙の理由は、ドイツがソビエトから流れてくる共産主義という思想をとどめる防波堤と考えていたとのことだ。
さらに教皇個人が青年期のとても充実した時期をドイツで過ごしたという背景も大きな要因だ、ということも紹介されている。
政治的権力も軍事力も持たず、ただ宗教的権威の上にのみ立っていた教皇。
なにが出来ただろうか?という問いに関しては、今となってはむなしく響くだけだが、教皇がもっと強く非難、遺憾の意を積極的に発言していればあれだけ多くのユダヤ人が死なずにすんでいたのではないか、と個人的には本書を読んで思ったこと。
高潔なそして敬虔な宗教人であったピウス十二世の苦悩は大きなものであっただろう、そして、宗教とはなんぞや?という思いが本書を読んだワタクシの感想なのだ。
ワタクシは基本的には、信仰としての「宗教」にはまったく関心がない。
ただし、教義を知るということに関しては、関心がある。
多数の人々が信仰している理由は何か?どんな背景があり、このような教義になったのか?それを知ることは、ワタクシの好奇心(言葉は悪いですが)を満たしてくれる。
そしてそうした関連の本などを読んでいつも思うのは、“神”とは「裁くもの」なのか?という疑問。
ワタクシが単純に思う“神”とは、万人に対して平等に慈悲深くあるべき存在なのだ。
しかし、どんな宗教でも教えを守らなければ裁かれる、バチがあたるという罰が待ち受けているのだ。
ほかの宗教を信仰している人は、“悪”なのか? 唯一の“神”とはなんなのか?
どの宗教でも他の宗教を信仰している人に対しては、慈悲深くないのがとっても解せないのだ。
もちろん、自分が信仰している宗教が一番良いものだ、ましてや生活の一部となっている宗教がもし唯一の良い教えではないとしたら、それらを信仰している人のアイデンティティにも関わることになるわけだから、単純な問題ではないということも理解できる。
人を殺すなかれ、良心に従え、敬虔であるべき、というそれぞれの宗教の信徒たちが血を流しあってまで他の宗教と争うということが、やっぱり、どうしても、ワタクシには理解できないのだ。
あー、やっぱり支離滅裂になってしまった。
まさしく駄文垂れ流しになってしまって申し訳ない。
結局、こうした疑問というのは明確な答えなどない、ということなのだろう。
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