JR福知山線脱線事故でお亡くなりになった方、ご冥福をお祈りします。また、お怪我をされた方、お見舞い申し上げます。
また、フランスのバス事故でお亡くなりになった方、ご冥福をお祈りします。

なんというか、日常に使う交通手段で事故というのは本当にやりきれない。
この世の中、絶対に安全ということはありえないのは重々承知している。
でも、やっぱり朝元気に家を出て会社や学校、買い物という日常の営みとして出かけた家族が帰ってこない、というのはツライ。

暴論を吐けば、飛行機事故はもうなんだかしょうがないというあきらめがあるけれど(なんとなく飛行機って非日常って感じだし)、バスや電車ってツライな〜。あきらめがつかないだろうな・・・。

とにもかくにも、まずは原因究明。
JRは隠し立てなどせず、すべてをオープンにしてもらい、今後の再発防止に努めてもらいたい。

だって、いきなり500人以上の人の日常を壊したわけだから。
ご遺族の方には、本当に心からお悔やみ申し上げます。
04月03日付 朝日新聞の報道「サンピエトロ広場に弔鐘、追悼の人々10万超 バチカン」へのコメント:

ヨハネ・パウロ2世がお亡くなりになりました。
四半世紀にわたる在位期間の間に、精力的に海外を訪問され、対話と理解を説いていました。

ワタクシは、キリスト教に関しては門外漢ですが、ヨハネ・パウロ2世は非常に勇気と平和を愛する人だったんだろうな〜と思います。

たとえば、ガリレオ裁判や十字軍遠征、ユダヤ人差別などで信者が過ちを犯したことを認めたり、他宗教と対話や和解を進めるなどが印象に残っています。
権威のある人が自らの過ちを認めるというのは、非常に勇気のいることであろう。ましてやヴァチカンだし。

次の法王となる方にも、こうした常に勇気と慈悲、対話による理解を実践していってもらいたいものだ。
06月02日付 日刊スポーツの報道「小6加害女児、興奮した様子なく事情聴取」へのコメント:

長崎県佐世保市で起こった小学6年生の女児の同級生殺害事件について。
もう、何やら暗い気持ちになった。

世の中が殺伐とした中で、一番影響を受けるのは子供たちだろう。
無機質な人間関係、肌と肌の触れ合いなどなく、人が肉体的にも精神的にも簡単に傷つくということを、身をもって知ることができない子供たち。
結局、こうした社会を作ってしまった我々大人の罪なんだろうか。

生活はさまざまな道具により便利になり、人と直接あったりすることなくコミュニケーションを取ることができる。
そうした中で、人と人との触れ合いという大事な何かが失われている。

チャットでの諍いが原因とされているけど、顔を突き合せて喧嘩するのと、言葉のやり取りだけで喧嘩するのでは、大違い。
言葉のニュアンスやその言葉を発したときの表情という情報が、書き言葉では上手く伝わらない。

そして喧嘩の種だけが、不気味に育ち弾けたのだろう。

カッターが紙や物を切るものだということを理解していても、人間を切ったらどうなるか、という想像ができない。もしくは想像しても“死”ということに現実感がなかったのだろう。
他人の痛みというのが想像できないのだろう。

背筋がぞーっとする。

ワタクシは独身で子供はいない(子供は欲しいと思ってはいる)。
会社のある先輩に、
「chさ、こんな世の中に子供を生んで、育てるってどう思うよ。俺は一児の父ではあるが、本当に情けなくなる世の中になってしまった」
と言われた。
その時、答えに窮してしまった。

今の世の中は、本当に子供を育てる環境としては最悪かもしれぬ。
そんな世の中に、確実に子供より早く死ぬであろう(そうした世の中に子供をおいて先立つであろう)ワタクシが、子を生み・育てていいものなのだろうか?と考えてしまった。

なんとか、こうした世の中を変えていかなくてはいけないと強く思う。
04月30日付 日刊スポーツの報道「イラク日本人人質の郡山今井さん会見要旨」へのコメント:

一連のイラク日本人人質事件でいろいろと議論されていることで、一番くだらないのが“自己責任”論だと思う。
退避勧告が出ている地域でボランティア、ジャーナリストが活動することにおいて、それは自己の責任において行動することは当たり前。でも、それはネガティブというか否定的な意味合いではなく、フラットな意味。危険地域で活動するにはリスクがある。危険と向かい合わせの中で、何かあってもそれは自分の責任だ。もちろんボランティア、ジャーナリストの人たちは承知の上。だから今更自己責任についてぎゃーすかいうのは“はあ〜”って感じ。
私がこの出来事について思うことは以下の通り。

●国が自国民の命を守るのは当たり前

だから、国が人質になった人に対してぎゃーすかいうのは、ちゃんちゃらおかしい。自国民の安全を守れないなんてことになったら国として機能していないのと同じ。もちろん時の政府と意見を共にしない考えを持っている人たちにもこれは当てはまる。

●人質になった人たちの、リスクに関して甘すぎる考え

危険地域にまさに飛び込むわけだから、危険に関してありとあらゆる想定をするべきだった。空路があるにも関わらず、アリババ街道とも呼ばれている危険な陸路のルートをなぜとったのか、現地の人間が危険だといっている地域になぜ足を踏み入れたのか。戦争下の“危険”ということについて、彼らの考えは甘かったのではないか。

●なぜジャーナリストが民間人と行動をともにしたのか

スパイと疑われることが多々あるのがジャーナリスト。なぜ“プロ”が民間人と行動をともにしたのか。取材対象だったらいざしらず。

●未成年を“今この時期”にイラク入りさせたこと

個人を攻撃するつもりはないが、なぜ今、この時期にイラクに入らなければならなかったのか?という疑問。今じゃなければならなかったのか?
すいませんが、ここから私が個人的に単純な暴論かもしれないけど思うことを書きます。
海外取材の経験もない、ましてや英語もしゃべれなさそう(もしかしたらしゃべれるかもしれないけど)な、未成年の子供をなぜ親はイラクに行かせたのかという疑問。
尊い信念を持ってイラクに行こうとしていることに関しては、とても立派で勇気のあることだと思う。しかし、今でなければならなかったのか?親御さんが、止めるべきではなかったのか、と思ってしまうのだ。チャンスはいくらでもある。命あっての活動なわけだから、ここは本当ならば親御さんが今回のイラク入りは止めるべきだったのではないかと私は思ってしまうのだ。

私は単純な意見だが、人が死ぬのを見る、聞くのは嫌だ。
ましてや、危険な地域に入って困っている人々のために働く人々が、命を失ってしまうのは本当にやるせない。

NGO、NPO、ボランティアという活動が、ようやっと日本でも広く知られるようになってはきたが、国とそれら活動をしている人たちとの連携が、まだまだボランティア先進国とは雲泥の差だと思う。

国がカバーしきれないことに関して、NGO、NPO、ボランティアの方々がカバーし、大規模な援助が必要となったら国として援助活動を行う。そうした連携プレーが必要だと思う。
そして国とNGO、NPOは協力してリスクに関しての情報や、危機管理のマニュアルを共有すべきだと思う。援助が必要な国は、えてして政情不安な場合が多いのだから。

今回イラクの人質事件に関しては、自己責任ということについて不毛な意見の戦いなんかしている暇がったら、危機管理のあり方や国とボランティアの人々の間の連携に関して議論するべきだと思うのだ。

蛇足:
信念を持って行動することは立派だと思う。でも、信念における行動がさまざまな人間をトラブルに巻き込むってのはお門違いだと思う。信念を持って行動する場合は、その行動によってどんなことが起こるのかよく考えた上でするべきだ。甘い考え、“信念”という理想だけで動くことほど危険なことはない。